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2006年1月16日 (月)

阪神淡路大震災から11年

またあの日がやってくる。
阪神淡路大震災からもう11年も経ってしまった。
1/16が”成人の日”の振替休日で17日(火曜日)の朝5:46のことだった。自分は吹田市内の会社の寮で震度5の揺れで目が覚めた。目の覚めない寮生もいたので震源地付近に比べたら大した事はなかったのだろう。(そう言えば昨年3/20の福岡西方沖地震の方が大きかったかもしれない)
寮の建物に被害は無かったが階段の防火扉が閉まったのと、食堂の植木が倒れていたこと、厨房の食器数枚が割れたこと、自分の部屋では棚の段ボール箱が落ちてきたことくらいだった。
震源地付近の被災状況は報道のとおりである。

この週、自分は出向の身(今もそうだが)で兵庫県庁の某部屋に詰める当番の日であったので、スーツに着替え通常どおり出勤しようとした。が、電車・その他交通機関はすべてストップしてるとニュースが流れている。仕方ないので(というか自分だけが出勤せず客先に迷惑がかかる、会社から怒られるという想像が見え隠れし)スーツの下にジャージを着込みウインドブレーカを羽織って250ccのバイクで出かけることになった。
吹田~園田競馬場前~塚口~西宮~芦屋へと山手通りを経由するが兵庫県内は、道路が大渋滞、30cmほどの段差も所々に出来ていて車が乗り捨ててある。
火事は数十カ所で発生しているが消防車は来ない、崩れ落ちた3・4階建てのビルや一戸建ての倒壊家屋も数え切れないほどあり、公衆電話には20人くらいの列が出来ている。
毎年この日を迎えると思うのだが、出勤を優先しないで崩れた屋根の下に生きている人を助け出すべきではなかったかというジレンマが今でも蘇ってくる。一生この問題は自分から切り離すことは出来ないのかもしれない。憂鬱な日だ。
神戸市内に入ると高速道路が倒壊、阪急電車の高架橋も崩れ落ち、漸く県庁に辿りついたものの何から手を付けていいか途方に暮れてしまいそうで気が狂いそうな有様だった。
当然停電でエレベータなど動いてないので階段を12階まで上り散在するコンピュータ・FAX・書類などをむなしく片づける。県庁の職員様はおろか自分の出向先など県内に住む人は誰も出勤して来なかった。それもそのはずだ、自分の家が大変なことになっているのだから。
仕事上差障りがあるので、この先のことは詳しく書けないが、それから約1ヶ月以上に亘って徹夜勤務(24時間の交代勤務)が続くことになった。
震災2週間後、オートバイ通勤も嫌になり(怖くなり)MTB自転車で通勤することにした。この頃には断続的に復旧した電車(大阪~JR福知山線,三田駅~神戸電鉄,谷上駅~北神急行電鉄,新神戸駅)・バスを乗り継いで徒歩を含め片道3時間以上かかっていたが、MTBを使えば2時間半で通うことができた。吹田から三宮まで35kmほどだったが、当然道路もまともに機能してないので瓦礫の山を自転車担いで越えることもしばしばで異常な通勤だった。
その後、電車が少しずつ回復してきて、JR東海道線・阪急・阪神を乗り継げばバスを使わなくても通えるようになった。1社の定期券を持っていればOKだった。とは言えまだ2時間はかかる。電車に自転車を乗せてもOKとなった時期もあった。自分は、自転車は載せなかったが狭い車内が益々狭くなった記憶がある。
1ヶ月を過ぎても神戸市内は車での移動は不可能で自転車かオートバイが活躍していた。でも屋外に放置した自転車はどんな鍵をかけようが盗まれてしまい、警察に届けるような雰囲気もなく届けてもまず出て来なかっただろう。オートバイにヒッチハイクする人も多数いて、車検切れの車も走っているような、まさに無法地帯と化していた。
空にはマスコミや自衛隊のヘリが飛び回り、地上では消防車・救急車・パトカー (どれも県外ナンバー) と自衛隊車両が通行するのも難儀している。
○に”緊”文字の許可車両しか阪神間を通行できないシステムになっていたが、PCで偽物を作ったりコピーを張ったりする車も多かった。
庁舎の廊下や事務室内にはたくさんのママチャリが置かれていた。

神戸市内は今ではすっかり綺麗になって当時の記録を残すようなものを探すのに苦労するが観光客も多く震災前にも増してエレガントで活気を呈しているそうだ。いつか機会があったら復興した大阪~神戸~淡路島間をツーリングしてみたいなあ。
あの頃の同僚や上司に会って、三宮センター街地階の居酒屋で一杯やりたいし、元町中華街の豚まんや長田のそばめし、明石の卵焼き(たこ焼き)も食べてみたい。

(読んでいただき感謝します。気の重い日記でごめんなさい)

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コメント

阪神淡路大震災、もう、そんな時が過ぎたことに驚きます。

友達は、親の反対を押し切って新居としてマンションを購入。壁に30cmもの亀裂(亀裂と言わないかもしれない)が入り、諦めた。
親は、安月給の身で、何でこんな高額のマンションでないと生活出来ないのかと言い続けたそうだ。その結果の震災。

震災の翌日、神戸の某病院から電話があり入院中の叔母に治療を出来る状況でないことから、転院を勧められた。
予備電源装置が壊れ医療行為が出来ないとのこと。
我が家の電話番号は、緊急時の第二連絡先となっていて、第一連絡先の長男は、カナダに転勤中だった。
地元の病院と転院の渡りを付け、神奈川から愛車を飛ばし、一度も休憩することなしに神戸に向ったが、京都を過ぎて渋滞が始まった。色々な公的機関の支援も受け、結果として、予定された引渡し場所の大阪市内で叔母を車に乗せ、神奈川の病院に向った。
重病でなくて本当に良かったとホッとしたが、既に、24時間も眠っていない。
神奈川の病院に着いた時、叔母は寝ていたが、そっと、車の外に出て、タバコを一服した情景を、今でも鮮明に覚えている。
そんな関わりのあった阪神淡路大震災の思い出です。
massyさんも大変な思い出があったんですね。
そう言う、犠牲的な精神を持った多くの人達に支えられ、今でも復興が続いている気がします。
massyさんの苦労に比べれば、たった、数十時間の事でしたが、叔母は、今でも長田で元気にしてます。

投稿: オヤジ | 2006年1月16日 (月) 19時49分

オヤジさんもそうでしたか。いろいろな人があの地震で影響を受けていたんですね。
神戸市西区から福井へ単身赴任していた会社の先輩はポリタンク5個に水を詰めて食料品と食器を積んだ軽トラックで舞鶴~豊岡を経て20数時間かけて帰省されたそうです。アマチュア無線仲間が応援してくれたけど会社は何もしてくれなかったと嘆いていました。
僕はお亡くなりになられた方を目の当たりにしてないのが不幸中の幸いかもしれません。
なりふり構わず我が身をボランティアに捧げる方もおられれば、役場を避難所代わりにして無気力になっている方々など様々な人を見るにつけ、被災していない自分が幸せ者でありこれからも命を大事にしようと思い直しました。

オヤジさんの叔母様が元気でおられること本当に幸せですね。

膝が完治(たいしたことは無かったようです)したので明日から朝練再開します。走行中に05:46を迎えますが、たぶん立ち止まることは無いと思います。

投稿: massy | 2006年1月16日 (月) 21時29分

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